お知らせ住職のひとりごと
2013年7月

「死んだら無になる」
と、こんな話を伺うことがございます。

なんとも、淋しい話です。
ご往生されていかれた家族や友人・知人との思い出も、先人方の教えや言葉も、私達の代まで命を繋いでくださったご先祖様の恩も、全て忘れてしまわれたのでしょうか?
私の個人的な地位・名誉・財産、善悪好嫌の感情など、確かに無くなるものは多々ございます。
ですが、それらが人生の全てではないでしょう。

お釈迦様は二千五百年、親鸞聖人様は七百五十年、ご臨終され時は過ぎましたが、その教えは今も私達を支え導いてくださっております。

故人様方の笑顔や想いも、きっと同じく私達の心に生きているはずです。
いずれ無くなるものばかりを求めて嘆くより、「死んでも決して無くならないもの」を、法要や仏事を通して、何度でも噛み締め受け継いで行きたいものですね。

2013年4月

最近、無宗教、宗教離れというものを耳にします。

若者に限らず年配の方でも、自分の家の宗教は何なのか?宗旨は何なのか?
とわからないという方が多いと聞きます。
初めて自分の家族、身内の葬儀で親戚に聞いて知るという方が多いのではないでしょうか?
しかし私はそれも一つの縁だと思います。目の前で大切な人を見送る中で、
いつかは大切な人と別れなければならないという現実、そしていつかは自分自身も
命を終えるということを知る「死」という現実を受け止めなければならないわけでございます。
浄土真宗の蓮如上人という方が白骨の御文というものを残されています。
その中に「されば朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉があります。
これは朝、起きた時は血気盛んな顔色であったが、夕方には御骨になってしまう身であるということです。私どもがみなそのような身であるという事をおっしゃっておられます。
だから「今」の自分を問いなさいということなんです。
私も普段、拝読、拝聴されていただくと、つくづく「今」の自分を問われていると感じております。
その、私ども今、命があなたを生きている中で、お寺に来て阿弥陀如来の願いに気付き、
親鸞聖人の教えを聞法しお茶を飲みながら、共々に悩み、笑い、悲しむことを私ども聞称寺は
願っております。   合掌

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